茨城県のご紹介

「新しい茨城」への4つのチャレンジ

「活力があり、県民が日本一幸せな県」の実現に向けて4つのチャレンジに取り組んでいます。それぞれのチャレンジについてご紹介します。

茨城県は、日本列島のほぼ中央を占める関東地方の北東にあり、東は太平洋にのぞみ、北は福島県、西は栃木県に接し、南は利根川をもって千葉県、埼玉県に界しており、首都東京の中心から県南の取手市は、40キロメートル、県都の水戸市は、100キロメートルの圏内にあります。

北部から北西部にかけては、南北に阿武隈山地の南端部となる久慈山地・多賀山地の山々と八溝山地の山々が連なり、この間に山田川、里川、久慈川、那珂川とその流域の平地があります。八溝山地は北西県境にそびえる県内の最高峰八溝山(1,022メートル)にはじまり、南走して栃木県との境に起伏して加波山、筑波山に至っており、また多賀山地には、花園山、神峰山、高鈴山などがあります。
中央部から南西部にかけては、関東平野の一部である常総平野が広がり、そのなかを小貝川、鬼怒川が流れ、この両河川を合流して最南端を流域面積全国第1の河川利根川が東流して、太平洋に注ぎ込んでいます。
南東部は、豊かな水をたたえた日本第二の湖霞ケ浦および、北浦を中心とする水郷地帯となっています。
東部は、延長190キロメートルにおよぶ海岸線がのび、その間に日立、常陸那珂、大洗、鹿島港と沿岸漁業の拠点となっている平潟、大津、久慈、磯崎、平磯、那珂湊、波崎等の漁港があります。
県の面積は、6,097.06平方キロメートル(平成27年現在)で全国第24位ですが、平坦であるため可住地面積は、3,982.47平方キロメートルと全国第4位の広さを持っています。

歴史

茨城県は、8世紀前半、奈良時代に編纂された常陸国風土記に「土地広く、土が肥え、海山の産物もよくとれ、人びと豊かに暮らし、常世の国のようだ」と記されているように、古来から多くの人々が豊かに暮らしてきました。
中・近世においても、この地域には有力な武将が居を構え、特に江戸時代には、水戸に徳川家の藩が置かれ、江戸に近く水陸交通の要所として発展するなど、地方における政治、経済、文化の中心として栄えていました。
江戸幕府崩壊後、1871年に廃藩置県・県の統廃合により茨城県が設置され、1875年に現在の規模になりました。
以後、本県は、この地域でそれまで培われてきた産業や文化を土台に、農業、工業、科学技術、文化、福祉等あらゆる面で、大いに発展を続けてきました。

歴史
「大日本史」は249年をかけて完成された

文化

茨城県には、偕楽園や鹿島神宮などの文化遺産が各地に遺されており、また、日本画の横山大観、近代陶芸の板谷波山、童謡作詩の野口雨情などの偉大な先人が多数輩出しています。
これらの文化的風土に育まれた伝統を踏まえ、本県は近代美術館の著名美術展、県芸術祭等の文化活動を活発に行っています。
近年、文化の果たす役割の重要性が改めて認識され、物の豊かさに加えて心の豊かさを享受し、潤いに満ちた生活を実現していくためには、文化の力の活用が不可欠となっています。
このような中、2015年に心豊かな県民生活と活力に満ちた地域社会の実現に寄与することを目的として、茨城県文化振興条例を制定するなど、本県の文化振興施策の総合的かつ計画的な推進を図っています。

文化
東国三社の一つに数えられている鹿島神宮

農業大県・茨城県の特徴と特産品

温和な気候と広大で平坦な大地、豊かな自然に恵まれた茨城県。
『常陸国風土記』の時代には、常陸国(現在の茨城県)は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていました。
そして現代においても、農業は地域の基幹産業として重要な地位を占めています。
そこで本県では、この「いばらき農業アカデミー」のほか、地産地消をオール茨城で応援する「茨城をたべよう運動推進協議会」の発足など、農業を盛り上げるためのさまざまな取り組みをおこなっています。

農業産出額は全国第3位

令和2年の農業産出額の合計は4,400億円を超え、鹿児島県に次ぎ全国第3位を誇ります。
内訳は、米が約17%、園芸が約51%、畜産が約29%となっています。
近年、園芸部門の割合が増加している大きな理由は、大消費地である首都圏に隣接していることなどの有利な条件をいかして、野菜、花き等の生産が盛んにおこなわれているためと考えられます。

茨城の農業

農業産出額合計 4,417億円
全国第3位 (令和2年)

(出典:農林水産省「生産農業所得統計」)

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